イルカやクジラ等、海棲哺乳類をテーマに彫刻作品を生み出す薬師寺さんは様々な海でイルカと泳いでいます。その中で、薬師持さんがどうしても忘れられない一頭のイルカがいると言います。
── イルカをモチーフにした作品や、美ら海水族館で暮らす尾びれを失ったイルカ、フジのために人工尾びれを作るプロジェクトにも参加されていますが、そもそも、イルカと深く関わるようになったきっかけを教えて下さい。
僕は家業を手伝いながら、アマチュアのカメラマンをやっていた時代がありました。その時、京都のある書道家のご一家を撮影し続けていました。
ところが、途中で事情があり、そのご家族が撮れなくなったんです。それを機に、自分は何が撮りたいんだろうと考え始めまして、その時、“イルカだ” となんとなく思いました。
また、ちょうどその頃から、ガラスで何か作りたいと思うようになって、“イルカだな” と。
また、僕は子供の頃から、仏さんの絵ばっかり描いていた子供で、仏師になりたいと思っていました。本当は芸大にも行きたかったのですが、父親の体が弱くて倒れたので、家業を手伝うことになったんです。
会社の経営と父親の介護で悶々としていた時期で、その頃「イルカに会いたいなぁ」と思いつつも、「会えるわけがないだろうな」と思っていました。
“イルカだ” と思ってからは、イルカの写真集をあるだけ買い集めて、ビデオを見て、イルカの彫刻も創作するようになりました。
── “イルカだ” と思ったのはなぜだったのでしょうか?
当時自分が置かれていた境遇と、イルカの自由さが真逆で、イルカの自由に憧れがあったんだと思います。
── そこから、現在のような彫刻家のお仕事をすることとなったきっかけは、一頭のイルカとの出会いだったそうですが、その時のお話をして頂けますか。
イルカやクジラ等、海棲哺乳類をテーマに彫刻家という仕事をしているおかげで、様々な海でイルカと泳いでいますが、どうしても忘れられない一頭のイルカがいます。
彫刻家を志す以前は、父の仕事を手伝うとともに、体調の優れない父の介護をするという生活を長年送っていました。
公私共に父と過ごし、自分の自由な時間というものは限られていました。偉大な存在でもあると同時に、まるで赤ん坊のような存在でもあった父、そんな父がある日亡くなり、自分の生活や思いがゆっくりと、確実に変わり始めていきました。
僕は、これからの自分を見つめなおすために、一人、小笠原に旅に出ました。
仕事と介護の合間を見つけては、イルカの彫刻を創ってはいたものの、野生のイルカに会うのは初めてで、まして海へ行く事も、旅に出るのも本当に久しぶりのことでした。
その頃の僕は体調も精神的にもかなりまいっていたので、思い切って旅に出たものの、イルカのウォッチング船に乗っても誰とも話さずに、一人別行動をとっていました。初めてのドルフィンスイムのときも一人ボートに残り、しばらくしてからみんなが海へ入った反対側から、一人海へ入るという具合でした。
一人でするりと海へ入ったその時、身じろぎ一つせず、まるで僕を待っていたかのように、まっすぐに僕を見つめ、立ち泳ぎをする一頭のイルカが目の前にいたんです。
会いたかったイルカとはいえ、その大きさとあまりの近さに驚き、しばらく固まったまま、にらめっこ状態が続きました。
思い切って僕のほうから泳ぎだすと、そのイルカもぴったりと横に寄り添うようについてきました。そのうちに僕の息継ぎとイルカの息継ぎのタイミングが全く同じになり、夢中で泳ぎ続けました。あまりの楽しさと興奮とで時間を忘れ、やっと我に返った頃には、ボートははるか彼方。
「どうしよう。戻ったほうがいいだろうか」と躊躇していると、(どうしたの、もっと遊ぼうよ)とでも言っているかのように、そのイルカは僕の体の周りをグルグルと回り始めました。そのしぐさにつられ、再び海へ潜りました。
二人の距離はさらに近く、まるでダンスでも踊るように互いの目を見つめあいながら、何度も何度も海の中で回りました。時が止まったような、二人だけの静寂な時間。現実の世界なのか、夢の世界なのか、その狭間を漂っているかのようなひと時でした。
僕が心の中で「もう大丈夫、大丈夫だから、ありがとう」、そう強く念じたとたん、イルカはパッと身をひるがえし、泳ぎ去っていきました。
あの時のイルカの瞳は、今でもはっきりと憶えています。母性とでも言うべきか、強い何かをその美しい瞳から感じることができました。
行方不明になる一歩手間でボートに帰り着き、「あれは何だったんだ…」と、夢の中にいるような心地の中、これからの自分の人生、真剣に作家として生きていこうと決めていたような気がします。
あの時、イルカに僕の声が届いていたのかは分かりません。でも、僕が感じたものは本物で、それが今も、そしてこれからも、作家としての根底にあることは確かです。