暗がりにひそむのは?

節電のためにネオンや過度のライトアップが消灯されるようになってから1ヶ月以上、すでにその風景に慣れてきた感じもあります。

渋谷や新宿などといった繁華街のネオンが節電のため、最低限の物を残して消灯されています。今までとは見違えるような暗さに治安が悪くなるのではないか? 心が暗くなるのでは? という心配がある一方で、今までが明るすぎたという意見もあるようです。

東京工業大学で建築工学を専門とする乾名誉教授によると、ヨーロッパでは日没後も明るさの余韻を楽しむために、なかなか照明をつけないのだそうです。暗がりを嫌ってすぐに明かりをつけてしまう日本人は「常に動き回ることを強いられていて、じっと考える能力を喪失している」とも言っています。

街が夜も明るいというのは、治安の面や商業的な面では良いと思いますが、風情があるかというとちょっと首をかしげることでしょう。作家の谷崎潤一郎は、薄暗さの美について論じた『陰翳礼賛(いんえいらいさん)』という本を書いていて、海外の建築家にも好評を得たと言われています。

薄暗い中に美があるのは、谷崎潤一郎の本を読むまでもなく納得のいくところですが、日本人は古来から暗がりを怖がっていたようにも思います。「黄昏時(たそがれどき)」という言葉がありますが、この黄昏という漢字は当て字で、もともとは「誰そ彼(たそかれ)時」だったのです。

これは読んで字のごとく、あなたは誰ですか? と尋ねるような時間ということで、人の顔がはっきりしない、日没直後の薄闇の状態を指します。似たような言葉に「彼は誰時(かはたれどき)」というのもあって、こちらは明け方の薄闇の状態を指します。もともと、これらの言葉に時間の区別は無かったようなのですが、いつしか「かはたれどき」が朝、「たそかれどき」は夕方となったようです。

「たそかれどき」にはもうひとつ別名があり、そちらは「逢魔時(おうまがとき)」といいます。別の書き方で大禍時(おおまがとき)とも書き、魔や禍といった不吉な字が入っています。薄闇の中、誰だかわからないその人影は、もしかしたら人ではなく魔や妖怪、幽霊ではないか? そう思って付けられた名前です。つまりこの時間帯は魔や妖怪が現われる、とても不吉な時間だとされていたわけです。

先日、ちらっと紹介した 鳥山石燕 は逢魔時という名前で、夕暮れ時に魑魅魍魎(ちみもうりょう)がじわじわと姿を現す絵を描いています。

電気の明かりが闇を駆逐することで、久しく失われていた黄昏時が大都会にも戻ってきました。みなさんは、夕暮れに訪れる薄闇に美しさを感じますか? それとも得体の知れない恐怖を感じますか?