現代社会と老荘思想(16)

「我を張らない生き方」

天はどこまでも広いし、地ははてしない。
そのように天地がどこまでも長らえていられるのは
自分から何かをしようとせずに、そのままに生きているからである。

そして、タオに則って生きる聖人も、
人の後ろにいて先頭に立とうとはしないが、いつも前にいるのだ。
人の争いなど参加せずに外側に身を置いているから、身体を保つことが出来る。

自分の為に何かをやろうとしないから、
ありのままの自分が存分に生かせるのだ。

老子道徳経 第七章

この章で老子が言おうとしているのは、天地が何も自分の好き勝手にやろうとしないように、人間も自分でやろうとしたがる傾向から外側に身を置いみようということです。
そうすれば、自然のまま、ありのままでいて、無理をしない生き方で身をすり減らさずに保つことが出来るのだというのです。

自分の為に何かをやろうとしないと言うと、そんなに謙虚さだけで自分を主張しないでいたのでは、世の中を渡っていけないと思われるかも知れません。

しかし、自分を主張するとは一体どういうことでしょうか?
それがないと、自分というものがなくなってしまうと思い込んでいますが、そこで自分だと思っているものは、実は他の人と比較した相対的な自分の価値を主張したがっているだけではないでしょうか。

プライドが許さないと言っているときに感じているのは、自分の方が上だと密かに思っていたのに、その価値が脅かされそうになって、焦っている恐れの感情のようです。
これに関しては自分を譲れないと思っているのは、その位置にしがみついていなければ、自分の存在価値がなくなってしまい、自分が消えてしまうと思っているのです。

いいかえれば、絶対的な自分の価値を感じていないから、他の人と比べた相対的な価値で自分を測るしかないのです。
自分が今まで築いてきた位置を奪われてたまるかと思って、必死にしがみつこうとするから、競争に身を置くしかないのです。

何でも自分でやらなければと思わずに、自然に身をまかせて他の人との競争に身を置かなければ、全然別の生き方があることが見えてきます。
それは、人と比べないから、いつもまわりから取り残されないかとびくびくしなくてもいいし、人よりうまくできないからと、自分を責めることも必要がなくなります。
ただ目の前の出来事に、自分の出来ることだけで対応するだけでいいのだから、焦ることもなく、イライラすることもなく、マイペースで生きていけるのです。

ですが、いきなりそのような生き方を直接想像するのは難しいでしょう。
その代わりに、
もし競争しなくてもいいとしたら、
もし人よりもできが悪くてもなにも非難されることもないと思えたら、
もし結果ではなくただ自分が存在するだけで価値があるのだと信じられたら、
あなたはどのように生きていくだろうかと想像してみるのです。

そうすれば、今のようにすぐに背伸びをして、自分を見せかける必要などないのだとわかります。
そして、失敗したらとんでもないひどい状況になると思っていたのが、どちらでも結果が変わるわけではないということがわかってきたらどうでしょうか。
もうそんな無理をする生き方は、やめてもいいのだ、無駄なことをしてきたものだと思えるようになるでしょう。

相対的な価値を追い求めるから、いつも出遅れないかと気を配っていなければならない。
その努力を自分の向上心だと思っているから、自分をしばることがやめられないし、そのようにしない人を見くびったり、文句を言いたくなるのです。
本音を言えば、自分がこれだけ気にして生きているのに、何でお前もやらないんだと言いたくなるのです。

ですから、自分が気にするのをやめて、ただここで起こることに対処すればいいのだとわかれば、他の人にひとこと言いたくなる気持ちも薄れていきます。
そんな努力よりも、いま目の前のことに集中して対処できるようにもなるのです。