現代社会と老荘思想(15)

「余地」

「余地」とは文字通りによめば、余っている土地や場所のことですが、そこから隙間があって余裕があることにも使いますね。

「余地がない」と言うときは、他にはもう選択の可能性が無いことを意味します。

しかし私たちが、もはや「余地がない」と言って他の可能性を捨てて、強引にいま見えているやり方を進めようとするとき、ほんとうに余地はないのでしょうか。

「荘子」の養生主篇には、包丁の達人がどのように包丁を使い、そしてなぜ達人と呼ばれるかの秘密が明かされます。

腕の良い料理人なら1年くらいは牛刀をもたせますが、並の料理人はひと月で牛刀をダメにして交換しなければなりません。
しかし、わたしは、いままで19年間、この牛刀を使い続けて刃こぼれ一つありませんと語ります。

それは、牛刀をどう動かせばいいかを知っているから。
牛の身体をよく見極めて、隙間を見つけるのです。
腕の良くない料理人は、肉が集まった所を強引に牛刀で切り開こうとしてしまうから、すぐに刃こぼれを起こしたり、牛刀を折ってしまうのです。
わたしは、隙間をみつけるように慎重に神経を集中して牛刀を運びます。
肉の塊のように見えても、そこにはかならず隙間があります。
骨筋の隙間には、包丁の厚みを受け入れてなお「余地」があるのです。

「余地」を見つけて牛刀を動かしているのだから、刀は刃こぼれひとつ起こさないというわけです。

これを聞いた文恵君は言います。
「庖丁の話を聞いて、養生の道に気が付いた。与えられた自己の人生を、どのように全うすればいいのかを教えられた。」

「余地」というのは、探す気になれば必ず見つかるのです。
私たちが、「もはや余地はない」と言い切って、前に進めようと言うとき、そこには自然に逆らって、人為的に事を進めようというはからいがあるのです。

最初は、ものごとに逆らわずに、合わせて生きていこうとします。
しかし、自分の考えたとおりに自然に手を加えれば、うまく楽に手に入ると言う経験をしてしまうと、次からも楽な方法がないかと探すようになります。

工夫してうまくやろうとすること自体は悪くないのですが、それが自然から離れれてひとり歩きし始めると、もとの対象が何だったのかは忘れられていきます。
つまり、相手が何であろうと同じやり方で押し進めてしまおうとするのです。

このとき、意識にあるのは「私のこのやり方」ばかりになっています。
もともとの対象の中に、「余地」を探そうという考えは、もはや忘れ去られて、自分の技にばかり頼ろうとしてしまうのです。

しかし、「余地」を探してみようと思う「心の余地」が残っていれば、わざわざ難しいやり方を取り入れる必要などなく、しかも自然を壊さないやり方が見つかるものです。

それは、「養生の道」にそった、無理をしない、心や身体に負担を掛けないやり方なのです。

わたしは最先端のやり方を見つけたなどといって、自然なやり方を低く見てしまってはいないでしょうか。
私のやり方でやり遂げた方が、より価値があると思い込んではいないでしょうか。
それは、単にエゴを満たしたいだけではないかと思って、振り返って見た方が良いでしょう。

すぐに包丁をダメにしてしまう無理なやり方ではなく、
「余地」を探すことを思い出して、「養生の道」に戻るのです。