現代社会と老荘思想(14)

「和光同塵」

和光同塵(わこうどうじん)という言葉を聞かれたことはあるでしょうか。
何となく聞いたことがあるけれど、はっきり意味は知らないと言う方も多いのではないでしょうか。

この言葉は、そのままの意味としては、光を和(やわ)らげ、塵(ちり)に同ずということになります。
光を和らげるとは、才知の光を和らげること、つまり自分の才能を目立たなくするという意味です。
塵は俗世間を意味し、塵に同ずというのは、俗世間に交じわっていることです。

つまり、自分の才能や徳を見せびらかすことなく、俗世間の中に交じって謙虚に慎み深く接して、目立たないように過ごしているようすを表しています。

では、もう少し何が言いたいのかをわかるように、この老子の言葉が出てくる、老子道徳経の第五十六章を取り上げてみましょう。

この章は「玄徳」ということを説明しています。

つまり先程の和光同塵として、自分の徳があるそぶりも見せずに世俗の中に交わっているが、実は深い徳を理解していて、さらに徳と同化している、そのような人が玄徳を備えた人と言うことになるのでしょう。

この章は、「知者は言わず、言うものは知らず」で始まります。
本当に物事がわかっている人は、やたらとしゃべらない。よくしゃべる人は、何も知らないのだ。
という意味です。

老荘思想では、タオ(道)とは、言葉で表せるようなものではないと説いているわけですから、やたらと語るものは本質もわからずに言葉をもてあそんでいるだけだということになるんですね。

禅の世界では不立文字という言葉がありますが、これも元々は老荘思想の流れを汲むものではないでしょうか。

言葉ではなく、あるいは見たり聞いたりした五感に影響されずに、身体全体で理屈抜きに感じ取るのがタオであり徳なのです。

しかし、そうは言われても凡人である私には、なかなか真理など感じ取れないと思われるでしょうか。

タオとは、すべてのものが生まれた源であり、わたしもあなたもその一つの分身、一本の流れであると考えますから、私たちはもとからタオの真理を自分の中に持っているのです。

そして、いろんな外界からの影響に惑わされず、もともと持っている自分の内面を見つめて本来の性質を解放してやれば、真理が見え、それをそのまま発揮出来るようになるのだというのです。

儒教が外側からあれこれ徳を習得することを勧めるのに対して、老荘思想は逆にそのような外側の影響を払拭すれば、わたしもあなたも今すぐにでも本来の徳を発揮出来るし、徳と同一化した存在になれるというのです。

そのための行動のしかたを言っているのが次の文章です。

塞其兌、閉其門、挫其鋭、解其紛、和其光、同其塵。是謂玄同。

其(そ)の兌(あな)を塞ぎ、其の門を閉じ、其の鋭(えい)を挫(くじ)き、其の紛(ふん)を解き、
其の光を和(やわ)らげ、其の塵(ちり)に同ず。是(こ)れを玄同(げんどう)と謂(い)う。

外から入ってくるいろんな情報をシャットアウトする(其の兌を塞ぎ、其の門を閉じ)。
そして、自分のとんがった鋭さを柔らかくして、紛争のもとになるようなことをつくらない(其の鋭を挫き、其の紛を解き)。
そして、先程の和光同塵、鋭さを抑えて世俗に交わって生きていくのが、玄同というものなのだと。

自分には何もわからないと思い、自分の力で世界を動かしているような気にならないでいる。
そして、ひけらかすような知性や徳を追求せず、それらは自然に自分の中から現れ発揮出来るのだと信じて、人為的な行動を取らない。
そのようにして、世俗に混じって目立たない存在として暮らしていくのが、徳と同一化して生きていく玄同の生き方というものであるのだと。

どうしても私たちは自分の力や知性を見せたくなり、「どうだ私のすごさを見よ」といいたくなる所がありますが、それを抑えることで、鋭いとんがった所が無くなり、紛争になるような原因を作り出すこともなくなります。
そして、そのようなあなたを見て、まわりの人は自然にあなたの徳を感じとり、何も見せなくてもその存在が貴重なものとなってくるのだというのです。

和光同塵に生きる。
たまには、思い出して、自分に行き過ぎたところがないか、内面を忘れていないかを確認してみてはいかがでしょうか。