現代社会と老荘思想(13)

「私の本質は波ではない」

私たちが本当に望んでいるのは「存在をまるごと受け入れること」ではないでしょうか。

たとえば親が子どもをまるごと受け入れるとき、それは子どもが何をしたからとか、良い子だから、言うことを聞くからといった理由は関係ないのです。

世間的にはどんなにダメな存在でも、ただその子が存在するからというだけで、無条件にそれを受け入れるのです。

同じように、あなた自身が「存在を受け入れる」とは、いい感情の時のあなたも、悪い感情の時のあなたも同様に受け入れるということです。

快不快などのあらゆる感情が、あなたの中を通り過ぎていくことはあっても、その感情の浮き沈みで乱されることのないあなた自身に気づくことです。

本当に条件なしにあなた自身を喜べる状態は、あなたが感じていることではなくて、「あなた自身である」ことによってもたらされるからです。

よく表面的な状態を海の波に例えますが、感情の海が嵐であっても、あるいは凪の状態であってもあなたの本質は海そのものであると確信することです。

あなたは喜びを感じれば、それがいつまでも続いて欲しいと願いますが、そのときあなたは、自分はその喜びの感情そのものだと思いたがっているのです。

ですが喜びの状態がずっと続くわけではありませんし、ずっと続いたのでは、喜びも色あせて当たり前の状態としか思わなくなるでしょう。
逆の状態があるからこそ、喜びも感じられるものです。

また、自分の存在とは、ただ表面的な表れである「波」がそのものであると思ってしまうと、自分の状態を他の波(他者)と比較して一喜一憂することになります。
こんな小さな波にしかなれない自分を嘆いてみたり、他の巨大な波になれる存在を羨んだりするのです。

しかし、波の本質とは、海あるいは水であるのは明らかです。
水の集まりである海の状態次第で、凪の状態もあれば、荒れ狂う波の形を取ることもあるだけなのです。

本質は私もあなたも同じ海の一部であることを見抜いたとき、他の波(他者)も同じ本質の表れ方の違いに過ぎないことがわかります。
また、今は荒れ狂っている巨大な波も、やがて時が来れば凪状態に戻るし、その逆も繰り返されるのが自然というものです。

今が最悪でも、それがずっと続くと思わないことです。
最悪だから、自分は嘆き悲しんだり、境遇を呪ったり、誰かを攻撃しなければなどと思わないことです。
いい時も黙ってそれをうけとれるのなら、悪い時もそれをそのまま受け入れましょう。

むしろ、あなたが何とかしなければと焦って、やみくもに動いてしまえば事態は悪化する可能性のほうが高いかもしれません。

濁った水を済んだ状態にするには、静かに手を加えずに放置しておくのが一番です。
何も出来ないでいることも、流れの中の一つの過程であると思えば、じっとしていることを受け入れることが出来ます。
なにもしないのが、一番の方策ということもあるのです。

衝動的に動きたくなったら、そこに焦りがないかを振り返ってみてください。

いままでも、焦って起こした行動は、いい結果を産まなかったのではないですか?
誰かがあなたのやり方を「何もせずに手をこまねいている」と非難しはしないかと恐れることはありません。

あなたは、焦りから動きまわることを良くないと思ったから、じっとしているわけです。
堂々と胸をはって、いまの状態を続ければいいのです。

いつか、大きな波頭を見せられるときが来るでしょう。
その時も、あなたの本質は「いまの最悪なとき」と少しも変わりはしないのです。

どんな波の状態も、あなたの一部分だと受け入れてしまいましょう。
波はあなたの本質ではなく、いまの表れ方に過ぎないことを忘れないようにしましょう。

そうすれば、自分が大きな存在の一部分として存在していることを、実感できる時もやって来るでしょう。