現代社会と老荘思想(12)

「冬の川を渡るがごとく」

老子道徳経の第15章にこのような表現がでてきます。

老子は、この章でタオを充分に修めた人の振る舞い方について書いています。
そのあり方は、とても説明できるようなものではないがと断って、あえて表現するとこんな風な人なのだいいます。

危険に満ちた冬の川を渡る人のように慎重であり、
いつも周囲を警戒しているかのように用心深くあり、
よその家を尋ねた客の様に落ち着いて威厳があり、
しかし人と交わる時は解けてゆく氷のように素直であり、
その素朴さは切り出したばかりの荒木のようであり、
寛容で広い心は深い谷を思わせ、
しかし濁った水の様に曖昧で捉えどころがない。

ところで、この最初の方に出てくる慎重で、用心深く、警戒してビクビクしているかのような印象はどういう意味なのでしょうか。

タオを修めた人なら、何が起こっても悠然としているのかと期待していたのに、そうではない小心さを思わせるような振る舞い方が最初よく理解できませんでした。

しかし、ではこのおそれはどこから来るものなのかと考えたとき、そうかこの「おそれ」とは人間関係における「恐れ」ではなく、もっと強大なものに対する「畏怖」といったものではないかと思いあたりました。

タオ(道)は自然も人間も含めた大きな流れです。
そこは、人間だけの思惑が通用する世界ではないのです。
人間も自然の一部としてその役割をはたすべき存在であり、時には自然が人間の思惑など吹き飛ばしてしまうこともあります。
それはそれで、タオの働きとしてその中にとどまるしかないのです。

西洋的な人間観や哲学は、人間は自然を開拓し、征服するものという見方があるようですが、そうではなく人間などその自然の一部でしかないのだからと考えるのです。
それをわきまえるなら、そこにある「おそれ」とは、人間が相手の「恐れ」ではなく、大きなものに対する「畏怖」の念を抱くといった感じなのではないでしょうか。

タオに従うことで人間も救われると信じて、人間中心の考え方ではなく、部分としての役割を果たしながら自然と調和していく。
人間などにはタオの全容は理解出来ないから、人間が自然を征服するなどといった発想は出てこないし、おそれを忘れないで自然と接していくことになるのです。

人間との関係においてだけ、おそれを知らない存在になろうなどと、そんな狭い範囲の考えは持ちません。
人間の考えたことなど、タオの働きの中ではちっぽけな働きに過ぎないと思うから、自然に対する謙虚で注意深い接し方も生まれてくるのです。

それは、タオ全体に対する謙虚さであり、いったん人間を相手に接するとなれば、「人と交わる時は解けてゆく氷のように素直」な人でもあるのです。

また人間との関係においてのみ、何ものかになろうとはしない。
そのようなものは、もう他に応用が効かなくなった加工品だからです。
そうではなく、タオの人は、切り出したばかりのあらき(樸)のような存在でいられるので、どんなものにも姿を変えられる許容度の高い寛容な態度を維持できるのです。

つまり、タオの人は、ただ人間だけを相手にしているのではなく、自然の一部としての存在をわきまえ、タオの流れから外れないでいることだけを注意して、後はタオに任せきっている。

いまの自分の回りの人間関係だけを気にするようなこともないから、そこで細かいトラブルがあったとしても、気にすることはありません。
自分にはタオの懐に抱かれている存在であるという深い安心感があるから、そのようなことからは超越した存在でいられるのです。

目の前の人も自分もタオの一部であり、自分がタオ全体に与えたことが、いつか自分にも返ってくる信じているから、「あなたのもの」、「わたしのもの」を区別して分裂してしまうこともありません。

それは「ワンネス」の世界であって、誰かを非難することなど、いずれ自分にも向けらるものであると知っているのです。
「わたしのもの」にこだわることなど、どれほどの意味もないことを理解しているから、世の中を不公平だと感じたり、他の人を羨むようなことからも無縁でいられるのです。

いまは、濁った泥水にしか見えないけれど、そこで騒ぎ立てずに静かにしていれば、いつか水は済んできます。
そこにタオの流れを見通せるから、いまの濁った状態にも落ち着いて接していることができるのです。

自分が泥水を綺麗にしようとしても何も出来ません。
それをきれいにするのがタオの働きであり、自分にできるのは、静かになにもしないでとどまっていることだけだと分かっているのです。

「それは、危険な冬の川を渡る人のようである。」
自然をあなどることも、不注意になることもなく慎重なままでいて、しかもタオの一部として安心していまを生きて行く。
それがタオを修めた人の振る舞いなのです。