現代社会と老荘思想(11)

「役に立たない生き方」

荘子の話の中では、人間から見て役に立たないということを扱った話がいくつか出てきます。

その中の一つに役に立たない大木が生き延びる話があります。

ある村の曲がり角に大地の神をまつるお寺があるのですが、そこにとても巨大な大木があるのです。
何千頭もの牛がその木陰で休めるほどの大きさ、その幹を抱えようと思えば百人いても足りないくらいなのです。
そこには見物人が多く訪れるので、木の下には市場が出来ています。

そこを大工の師匠と弟子が通りかかります。
大工の師匠は、見向きもせずに通りすぎようとするので、弟子が尋ねます。
「どうしてあんな立派な大木を見ようともしないのですか?」
師匠は答えます。
「あの木は役に立たない。無用の木だからだ。」
「立派な大木に見えるが、あの木で何かを作っても、すぐに腐ったりぼろぼろになってしまうから、誰もあの木を切ろうとしなかった。だから、あんなに巨大になるまで生き延びることができたわけさ。」

私たちは、人の役に立つ人間になることを目指します。
役に立つ人間こそが、他の人よりも価値があると思い、そのことに疑問を抱くことは余り無いでしょう。

価値があるとは、人間にとって役に立つこと、それは人の場合も同じ尺度ではかられます。
社会は役に立つ度合いに応じて、その人を重用したり、高い給金を与えようとするのが当たり前で、私達自身もそれに疑問を抱かずに従おうとしています。
極端に言えば「働かざるもの食うべからず」ということを受け入れているのです。

自然は人間の役に立つとわかれば、どんどん開拓されて、結果的に自然は破壊されることにもなります。
役に立つ自然は、人間が欲しいと思えばいくらでもそれを提供するのが当然とばかり、自然を破壊し尽くしてきて、ようやくこのままではまずいのではないかと思い始めたばかりなのです。

しかし人間というものは、一度決まりを作ってしまえば、なかなかそこから抜け出ることはできなくなります。
自然保護をさけぶ傍らで、価値のある資源があるとわかれば、ここは私たちの領土だとアピールを始めたりするのが現実なのです。
あるいはこの荘子や老子を生んだ国に、レアアースがあるからと単純に頼っていたことを見直す動きも出てきました。

役に立つことに突き動かされる私たちは、自分たちも役に立つ人間だということを証明することに躍起になるわけですが、それは裏返せば役に立たなくなったとき見捨てられ、自らも希望を失うことにもなるということになかなか気づきません。

さて、先程の荘子の話では、大工の師匠の夢のなかにあの大木が出てきて語ります。
「例えば実がなる木は人間にとって有用だから真っ先に刈り取られてしまう、だが私のような役に立たない木はおかげで切られず生き延びられたのだ。しかしだからといって人間の価値観だけで有用かどうかを決める権利があるのかね。いったい自分と私とどっちが長生きすると思っているのかね。」

人間は自分たちの価値観を持ち始めてから、自然の自然なりの生き方のルールなど分からなくなってしまいました。
たとえ自然保護を叫ぶ人であろうと、その根っこには人間の価値観が染み付いています。
人間であることを放棄してまで自然に従おうとする人はいないでしょう。

まあしかし、この大木は人間の尺度からして役に立たないという理由で、切り倒されずに生き残り、このような巨大になるまで成長できました。

ところが、この大木が生き残ったのには、もうひとつの要因があったのです。

道の曲がり角にあったこの木は、本来なら役に立たないとはいっても、じゃまになる位置にあるから切り倒されていたはずだったのです。
しかし、それが切られずに済んだのは、お寺の境内という位置に育っていたからなのです。
やがてこの寺の守り神のような扱いをされることになり、普通なら切り倒されても仕方のないところを、逆に崇め奉られる大木にまで育ってきたのでした。

ですから先程の役に立たないという理由とは対称的に、人間の価値基準ゆえに生き延びることとなるのです。
もはやここまで巨大になり、守り神としての実績を積んだこの大木は切られることはなく、天寿を全うするまで存在し続けることになるでしょう。

役に立つと思われれば、とことん使いまわされ捨てられてしまう。
さらには、役に立たないことを知られても処分されないように、たくみに自分の身を守るための手をうって生きてきた。

さて人間の私たちは、このような生き方をみて何を振り返ればいいのでしょうか。

何百年も生き続ける大木と、百年も生きない人間とではそもそも生き方は違うのでしょうが、人間の立場からの生き方しか考えられないのも情けないことかもしれません。

人間社会の中で考えても、役に立つことだけに躍起になっていれば何かを見失います。
また、役に立つ力があるにしても、それをあえて見せない生き方が必要なときもあるのでしょう。

お寺の境内に生え出た大木は、自らの役割を人間の基準にも合うようにつくりだしたという見方も出来ます。

木が成長するスピードは一代の人間では見届けられないこともありますが、そういうスケールの中で自分の役割を見てみることも、人間の短いスケールでは見えなかったものを見せてくれるかもしれません。

いろんな見方をしてみることで、役に立つとはどういうことなのか、もう一度見なおしてみたいと思うのです。