現代社会と老荘思想(10)

「自然はたえず変化する」

台風が来たって朝には静かになっている
大雨が続いても1日で終わるだろう
このように天地の働きでさえいつまでも続くものではない。
ましてや、人が考えて作りだしたことなど長続きするわけがない。

(老子道徳経 第二十三章)

この老子の言葉は、他の章でも一貫しているように、人間が頭で考えた作り物のやり方は長続きしない、タオの流れに従ってまかせることが自然な命の働きであることを言いたいのでしょう。

自然はたえず変化し、川の流れも一時として同じものが止まってはいない。
私たちは、人間もその自然の一部として変化し続け、やがて年老いて世代交代する存在であることを承知しています。
しかしそれを承知していながら、他の動物と違って人間はその自然の流れを止めたり、入れ替えたり出来ないだろうかと考えます。

変化を止められる様に感じてしまうのは、思考の働き、もっと言えば言葉を使うという人間の能力が、良くも悪くもまねいた結果と言えるでしょう。

ただ流れていく出来事をどこかで止めて考えることは、時間による変化も考慮した思考を可能にします。
動物的な直感での判断だけでなく、客観的にものをとらえて時間の変化も計算に入れた行動の指針を生み出すことも出来るでしょう。
それにより、未来を見据えた計画というものを考え出せるわけです。
さらには、今を離れて未来を予測することも可能にします。

しかし、未来とは思考の作りだしたものであって、実際には「いま」という一瞬にしか存在できないし、それ以外の時に何かをすることは出来ません。
思考に慣れてしまって、それを現実と混同してしまうとき、自然から離れてしまった人間ゆえの混乱が生じてしまうのです。

今に存在することを見失うとき、私たちの直感的な感性を狂わせ、いまに止まって現実を見るという能力を覆い隠してしまうことがあるのです。
時間を操作しているつもりが、逆に時間というものに騙されて、現実には「いま」しか存在しないことを忘れてしまうのです。

たとえば、台風がいつまでも私たちを苦しめ続けたらどうしようかと考え出す人がいるのです。
大雨が続いてすべてが水没したらどうしようかと不安になります。

実際にそういうことが起きれば確かに大変ですが、それはその時に対処するしかありません。
ですが思考の中ではいくらでも現実離れした恐怖を作り出すことが出来ます。
そして、作られた予測と現実との遊離が大きくなれば、その人は生きていく上でのトラブルを抱えることになるのです。

恐怖にとらわれ出すと、それはその人の中では現実と区別がつきません。
もはや気のせいではなく、実際に肉体にも影響を及ぼし始めるのです。

あるいは、人との関わり方に関しても、私たちは思考を使って現実とは違う他人像を作り上げていきます。
私が思う「あなた」とは、私が作りあげた「あなた」であって実際のあなたではないことを、すぐに見失ってしまいます。

私は自分が作り上げた「あなた」を操作し、コントロールしようとします。
本物でない「あなた」を相手にしていますから、私が思うようには相手は反応してくれないでしょう。
しかも、それはどこかの時点で作り上げた「あなた」という存在であって、刻々と変化する私とあなたの関係は時間を止めてしまった「あなた」では推しはかれません。

容易に思考の世界に入り込んで、その中で行動してしまうのを防ぐには、刻々と変化する「あなた」と「私」を見逃してはならないのです。
いまの私を見失い、いまの相手の変化を見逃してしまうのは、変化するものである現実をいつまでも変化しない言葉に置き換えて代用しようとするからです。

「相手がどう反応するかはわかっている」と考えてしまえば、いまの相手を見ることをしなくなります。
「私とはこういう人間である」と固定して考えているとき、それに合わない私は見捨てられていくのです。

こうして、架空の相手と対応する私は、現実との接点を遠ざけていきます。

変化するものを固定して捉える見方は、思考実験としては役に立つでしょう。
ですが、やがてそれになれてしまうと、変化する現実を見なくなってしまうという弊害を生み出してしまうのです。

残念ながら、まわりのものごとはあなたの予想通りには変化しません。
あなた自身の思っているあなたと刻々変化するあなたの間にもずれは生じます。

この当たり前の事実を思い出すとき、現実を無視した期待を抱くことはなくなり、変化に柔軟に対処できる自由なあなたを取り戻すことが出来ます。

予想通りに運ばなかった現実を、そのまま受け止めて残念がるとき、失敗はいつまでも傷跡を残しません。
予想に反して起きる喜びの現実を受け入れるだけの自由さを保っていれば、現実とは退屈なものだと思うこともなくなるでしょう。

自然は人間から見ればいつ災害をもたらすかもしれません。
いつもあなたの期待通りの存在ではいてくれません。
それを嫌って、思考で作られた変化しない世界にとどまろうとすれば、変化する現実は必要以上に怖い存在となってしまうのです。
ですが、私たちも最初は何もかも予測の出来ない存在だと見えていた子どもの頃の世界観を忘れてはいません。
怖さと同居していても、無邪気に笑っている時間も持てる柔軟さを持ち合わせているはずです。

まわりの人達も、あなたが固定した眼鏡を通して見ていなければ、あるときはあなたに喜びを与え、別の時には苦痛ももたらす存在である事実を隠さないことです。
それこそが現実であることを受け入れるだけで、逃げ出そうとするが為の恐怖からは自由になれるのです。

人間の都合で自然や世界を捉えることをやめれば、タオに沿った道が見えてきます。
それは、自然の一員としての私たちの参加の仕方を教えてくれるのでしょう。