現代社会と老荘思想(5)

「上善若水(じょうぜんみずのごとし)」

最高の善とは水のようなものである。
水は万物の成長を助けようと働く。しかし競ったり争ったりということはしない。
いつも、人がさげすむような低いところに身を置いている。
それが道(タオ)の働きにいちばん近いからだ。
住むのは上の方が善く、心は奥深いのが良い。人には情け深く、言葉は信頼できるのが良い。
政治は平和に治まるのが善くて、事業は有能なのが良い。
行いは時にかなっているのがいいのだ。
どれも水を手本として、争わないことが、良いありかたである。
(老子道徳経 第八章)

「上善若水」という言葉は、ご存じの方も多いかと思います。お酒の銘柄にもなったりしていますね。

「水は方円の器に従う」という言葉もありますが、無理をせずに自然の摂理に従って生きることが、人間の道にかなっているということを言っているわけです。

しかし現実には、人生の目的とされているのが、「出世して名声を得ること」であったり「財をなして広大な邸宅に住むこと」であったりします。

とても、自然にしたがうことでは出来そうもなく、他人との競争に勝ちぬき、多くの人を犠牲にしてでも、無理をしなければかなえられないことだったりするのです。

しかしそんな社会も、競争につかれ、疲弊してきた感もあります。

そもそも、競争を最初から放棄しようとする若者も現れてきています。

いまでも、企業では競争心を表に出す人材を、意欲がある証しだと見ているのかも知れませんが、それにいい加減、限界を感じている人も多いのではないでしょうか。

それは、今に始まったことではなくて、2500年前の老子も、競争や争いをやめることを説いてきたわけです。

老子の生きた時代も、すでに人びとは競争に明け暮れて、いくさを繰り返していた時代なのでしょう。

そして、その時代でも、道徳を教えることで、それを押さえ込もうとして、儒教が社会では受け入れられていたわけです。

老子は、人為的に利他的な心を持たせようとする儒教に反発して、自然な人間のあり方として、それがもたらされることを主張しました。

「水は万物の成長を助けようと働く。しかし競ったり争ったりということはしない。
いつも、人がさげすむような低いところに身を置いている。
それが道(タオ)の働きにいちばん近いからだ。」

「いつも、人がさげすむような低いところに身を置いている。」というあたりは、前回のへりくだりの精神にもつながってきます。

「あらゆる流れが集まって交わる様子は、牝(メス)の在り方である。
牝はいつも静かにじっとしていて、そのことで牡(オス)に勝つのだ。
これは、牝のへりくだりである。
荒々しく動き回ることより、静かにへりくだっている方が真の勝者なのである。」
(老子道徳経 第六十一章)

「人がさげすむような低いところに身を置く」ことが、惨めな生き方で、競争に負けたもののあり方だとする見方からは、何を言っているのか理解できるものではないでしょう。

しかし、そのような競争第一で生きてきた人であっても、人生を終えるときにも、「もっと競争がしたい」というものだろうかと考えてしまいます。

社会がそうであるから、人びとが競い合おうとするのか、それとも人間の性のありかた次第では、競争したがるものなのか。

それはどちらか一方が原因というものでく、それだからこそ同じことを繰り返しているのかも知れません。

ところで「行いは時にかなっているのがいいのだ。」とは、いま必要のないものをため込むことではなく、いま必要のあることだけを行うのが自然にかなっている、と言っているように思えます。

しかし、私たちがやっていることは、時にかなことではなく、あらかじめ人間の目的にかなうものをつくって、用意してしまえば、自然の流れとは関係なく人間の流れを作れる、とでもいうような発想からの行動のように思えるのです。

老子はそれを批判します。