現代社会と老荘思想(4)

「無為(wu-wei)」
老子の思想の中でも、特に有名でありながら、その意味がとりわけ難解なのが、この無為という言葉ではないでしょうか。

老子は言います。
「そこで私は行動を起こさないことの恩恵を知る。言葉なき教えに従えば、行為しないことはこの世に比べるものがないほど有益なものである。」
日本語では無を為すとも読めますが、英語で「no-action」あるいは「do nothing」では何もしないという否定になります。
無為という言葉で、老子は何を言おうとしたのでしょうか。
言葉通り何もしないと解釈したのでは、訳がわかりません。
ここはやはり、無為とは作為を否定するという、老子によくある逆説的な意味合いに受け取るのがよさそうです。
老子は、作為的なもの、人為的な決まりごとを嫌い、タオに任せるのがいいのだと説きます。
ですから無為によってものごとが為されるというのは、頭で考えた人工的なはかりごとを排除すると言うことです。また、別の言い方をすれば、タオの働きを信じて結果を預けてしまうということではないでしょうか。

学ぶと知識は毎日増えてくるが、道を修めれば、逆に毎日知識が減っていくのだ。
減らして減らして、ついに無為の境地にまで行き着く。
そうして無為に任せておけば、全てのことが見事に成し遂げられるのだ。
天下を取るのも、特別なことをしなくても、自然に任せることで得られることなのだ。
だから、自分で特別なことをしようとすると、かえって天下は取れないんだよ。
(第四十八章)

現代社会においては、仕事をするとは自分で行った事の責任を持つというのが、当たり前の前提とされます。
ですから、当然なぜ私はそのように行動したのかを、説明しなければなりません。
しかしこの考え方に慣れすぎてしまうと、老子の言っていることとは逆に、どんどん知識を増やして自分の頭で考えた行動と、それ行っている「私」という行為者をどんどん強大にしていくことにつながるのです。
その結果は、なりゆきとして、私の手柄を考えるということにつながり、競争によって人より優位な存在になり、人の先に立とうと考えたくなってきます。
自然(タオ)が成し遂げたことも、すべて自分の力でやり遂げたのだと錯覚します。
自分の力でやっていると考えることは、一方で自分の手柄だという優越感や、達成感をもたらすかも知れませんが、その一方で自分の思いとは異なる結果になれば、いちいち苦悩を感じることになるのです。
自分の思ったとおりの結果になったのは、たまたまそうなっているに過ぎないのだとは考えません。
あくまで自分が為し遂げてこそ喜べるという考えは、自我を強大にし、またほかの人にもそれを強要します。

無為とは、あなたが作為的に動かずに、タオを信頼して起きてくることを受け入れ、それに沿って抵抗しないで進むという道なのです。

「あらゆる流れが集まって交わる様子は、牝(メス)の在り方である。
 牝はいつも静かにじっとしていて、そのことで牡(オス)に勝つのだ。
 これは、牝のへりくだりである。
 荒々しく動き回ることより、静かにへりくだっている方が真の勝者なのである。」
(第六十一章)

このように、逆らわずに流れ込んでくる全てを受け取るというのも、「無為という行為」なのだということです。