現代社会と老荘思想(2)

『道の道とすべきは、常の道に非ず。』(道可道、非常道。)
道(タオ)といってもね、これが道だよと説明できるようなものは、本当の道ではないんだよ。
老子第一章の始まりの言葉です。

孔子や孟子の思想(儒教)では、人の道といえば「人はこのように生きるべきだ」とか、「このような徳を為すのが人の道である」といった感じになるでしょう。
しかし老子は、まず最初にこのような道を否定します。
道というのは、言葉でこれが道だと説明できるようなものではないと言い切るのです。
ですから、儒教のような守るべき規範を示されるのを期待していると、いきなり説明できないものだと言われて戸惑ってしまいますね。

老子の言う道とは、言葉に先だって存在するもので、すべての根源として存在するものなのです。
私たちが普段身近に見ている世界は、名前が付けられたものに囲まれ、自分との関係の中で常に親しんでいる世界です。それはまた、常に変化していくものです。「私」自身も日によって感じ方も違うし、まわりの状況も時間と共に変化します。状況の変化によって「私」という存在も変化するのです。そのような世界は、言ってみれば「相対的な世界」であるといえるでしょう。

これに対して、老子の言う「道(タオ)」とは、「絶対的な世界」であると言えるのかも知れません。すべてのものごとが、そこから生まれ、従っていくのが「道(タオ)」であり、それは人間だけを特別視するようなものではないと言っているようです。
言い換えれば、「道(タオ)」とは原理の世界であり、私たちが生活するのは、その現れ(現象)の世界なのです。
私たちは、その現れだけに気を取られてしまいがちで、それが「道(タオ)」の原理から外れてしまうとき、さまざまな問題を抱え苦しむことになります。
だから、「道(タオ)」に従って生きているかどうか、見直してみることが大事であるとして、以降の章でそれを説いていくのです。

「言葉では説明できない」というのは、実は深い意味を持っています。
言葉というのは、私たちが物事を区別するために作り出したもので、それはそのもの全てを表しているわけではありません。

私たちが言葉で何かを表現するとき、その限界から物事の一部分しか表すことができません。しかしいったん言葉を使って思考するとき、その限界を忘れて言葉が物事を全て表していると錯覚するのです。またそれを聞いた相手の人は、その言葉からその人なりの解釈を行って内容を取り出すわけで、ここでもまた表す内容は変化させたり、制限されたりしてしまうのです。
しかし、私たちの世界は言葉で表され作りあげられます。それはだんだん高度になっていきます。言葉、名前が表すものの限界を忘れたとき、私たちは思考の世界が現実の世界だと思ってしまうのです。

それは、「私」というものにも適用されます。社会的な「私」はさまざまに圧力を感じ、強制を感じ取ります。それは「私」への言葉の脅威ですが、本来の私自身の存在への脅威と感じられます。まともに受け取れば、もう私には耐えられないと感じてしまいます。
しかし社会に生きる「私」が打撃を受けても、「道(タオ)」の世界から見れば、本来の私は何も変わらず存在しているのです。
いつでも、もうひとりの本来の自分に立ち返ることを思い出して、帰っておいでと言っているのです。私たちはそこ「タオ」から生まれてきた、だから誰でもその世界を知っているし、いつでも立ち返ることができるのです。

そんな「道(タオ)」の世界はいつでも待っていてくれるから、安心していいんだよと言ってくれるのです。